ここのところ「こどもたちのライフハザード」と
「メディア時代の子どもと保育」という本を
たてつづけに読みました。
前者は、ジャーナリストの手によるもので
後者は、大学の先生が著者です。
私も論文を書く時に気をつけようと
思っているのですが、
両者のテクストの構造は
基本的に異なっています。
ジャーナリストの手によるものは、
特徴的なデータを取り上げて
事実を予測していくというもの。
一方で、大学の先生のものは、
ありとあらゆるデータを収集し、
時には実験や観察を繰り返して
仮説を組み立て
検証していくというスタイルをとっています。
ともするとジャーナリストのものは
自分の主張に都合のいいデータで
加工されていく嫌いがあるのですが、
すべてのデータを収集していては
時代のスピードについていけません。
かといって勘に頼ってばかりでは
変な「予測」になってしまうので
取材が重要な役目を果たすことになります。
<そんなわけで、私はよく渋谷に
取材に行くのですが(*^_^*)>
要するにジャーナリストの著作は
往々にして、現在を基点として
未来を予測するもので、
大学の先生のものは
過去のある時点を基点にして
現在(すでに過去になっている)を
検証する傾向にあるということができます。
その即時性やこれから起こることを
予測するという点において
ジャーナリストの著作は必要であるし、
確かに検証していくという意味で
大学の先生の著作もまた
とても重要なのです。
前書きが長くなりましたが
前掲の2著書は、
それぞれの書き手による
特徴を有しつつ
子どもの「身体感覚」に着目している点が
共通していました。
子どもの「身体感覚」…。
次元は少々異なるかもしれませんが、
お金もキャシュレスやIT化によって
身体としての感覚を、
ますます失っていています。
時代の大きなうねりを感じるとともに
考えさせられた2冊でした。
「メディア時代の子どもと保育」という本を
たてつづけに読みました。
前者は、ジャーナリストの手によるもので
後者は、大学の先生が著者です。
私も論文を書く時に気をつけようと
思っているのですが、
両者のテクストの構造は
基本的に異なっています。
ジャーナリストの手によるものは、
特徴的なデータを取り上げて
事実を予測していくというもの。
一方で、大学の先生のものは、
ありとあらゆるデータを収集し、
時には実験や観察を繰り返して
仮説を組み立て
検証していくというスタイルをとっています。
ともするとジャーナリストのものは
自分の主張に都合のいいデータで
加工されていく嫌いがあるのですが、
すべてのデータを収集していては
時代のスピードについていけません。
かといって勘に頼ってばかりでは
変な「予測」になってしまうので
取材が重要な役目を果たすことになります。
<そんなわけで、私はよく渋谷に
取材に行くのですが(*^_^*)>
要するにジャーナリストの著作は
往々にして、現在を基点として
未来を予測するもので、
大学の先生のものは
過去のある時点を基点にして
現在(すでに過去になっている)を
検証する傾向にあるということができます。
その即時性やこれから起こることを
予測するという点において
ジャーナリストの著作は必要であるし、
確かに検証していくという意味で
大学の先生の著作もまた
とても重要なのです。
前書きが長くなりましたが
前掲の2著書は、
それぞれの書き手による
特徴を有しつつ
子どもの「身体感覚」に着目している点が
共通していました。
子どもの「身体感覚」…。
次元は少々異なるかもしれませんが、
お金もキャシュレスやIT化によって
身体としての感覚を、
ますます失っていています。
時代の大きなうねりを感じるとともに
考えさせられた2冊でした。